昭和42年6月26日 夜の御理解


 信心さして頂いて( )が神様を段々信ずることが出来るようになる。その信ずることのできれるということが、その人がおかげを受けておることなんですけれども、信じておる人が信じておることを、人に伝えるときに、これは本当に、あの生き生きとして相手の心に響いていくもんだと思うですね。この信じてない、おぼろげである。信じてもいないのに信じておるようにして話したって人に伝わるはずが無い。又おかげも受けない。私それを今丁度、御祈念前に久留米の塚原さんが久しぶりで、先日も参ってきたらしいけど、私が会えなかった。今日は是非、私に会いたいというて、控えに通してございましたから、あっていろいろ話しておりますところへ、丁度今日のあの土居の共励会でございますから、久富正義さんが先生迎えに参りました。それで、まぁちょっとこっちへ入ってお茶を頂きなさいと云うて、一緒にそこでお話をさして頂いた。塚原さんはよう久富さんを知っとりますから、その私共の話を聞きながら、横から正義さんがその塚原さんに言うんですね。塚原さん折角あの信心をさして頂くならですね、御霊様が喜んでござる、御霊様が喜んでござると言うことが分かるところまで信心をしなきゃいけませんよ。おたくもおかあさんがあれだけの信心をなさっておられて、そして亡くなられた。けれどもそのあなたがここにそのお参りをされたという事をおそらくおかあさんの御霊様がどのくらい喜んでおられるか分かりません。 
 その喜びがです、本当にこちらへ伝わってくるくらいのところまでは、信心を頂かなきゃいけませんよ。というその話をしておるのを聞いてから、そうどころじゃないなぁと思うたんです。あれがですね、御霊様も分からない、神様も分からない者に話したってあんなもう本当に、その聞いておる塚原さんが私の話よりもですね、本当にこの目を輝かすようにして話を聞いてるんですよ。本当におかあさんの御霊様が喜んで下さる、自分はある難儀な問題でお参りをしてきているんだけれども、なんか難儀な事がおこらなければ参って来ないんだけれども、それでもやっぱりお参りをしたという事を確かに、あれほどの熱心な信心をしておったおかあさんの事であるから、喜んどるじゃろうじゃいかん。喜びがこちらへ伝わって来るもの。そこまでは信心を進めなければいけません。と云うて、お話をしておるのを聞いてからですね、私はそういう意味あいでお互いがおかげを受けていくことの体験を人に聞いてもらうということは素晴らしいと思うですね。
 自分が本当に助かっておること、自分が本当におかげを確信しておる事、それを人に伝えさせてもうう。成る程、これはですね、どんなに先生でも、そこのところの実感もなければ体験もない。本当にそれをそう思って無い。例えば神様を有り難いということが分かるだけじゃつまらん。有り難いと同時にこの神様は怖い方じゃなぁと分かるようになったら、一人前と言われるくらいにです、本当にそれが分からなければです、人に伝えたって響いていくはずがない。私はその話しを聞きながら、そんな風に思うたですね。
どうぞひとつ皆さんがですね、勿論御霊様が喜んで下さる事が分かるところまでということは、そのまま神様の働きというものを分からしてもらう。もう神様が本当に氏子可愛いと御一念で私共の上に様々な風に表れてみえるということをです、確信させて頂ける信心。神様を本当におぼろげであっても、はっきりこうつかまして頂けれる、頂かしてもらえる信心を頂かなければ自分自身の助かりもないが、人に伝えてもそれがそう伝わってはいかない。誰々さんのお話ではいけない。自分自身が例えば今日の正義さんの話なんかはです、自分が本当にそれをそうと思いこんでおるし、又自分が信心になれば、又神様に打ち向かえば、又御霊様に礼拝をすれば何がなしに神様のお喜びを、御霊様のお喜のお喜びを何か手応えのような感じでです、心に受けとめる事ができれるからこそ、私は正義さんの一言がです、私も有り難いと思うたが、それをいく塚原さんが、本当にその感動するようなおかげになって来たという風に思いますですね。 まず自分自身がね、いただかにゃいかんです。             どうぞ